文:真喜屋力(沖縄アーカイブ研究所)
首里劇場の考古学的考察
首里劇場は1950年建築以来、72年間ほとんど変わらない形で現存する沖縄最古の木造の芝居小屋。とは言え、マイナーチェンジはいくらかされてきた。それらの痕跡を劇場の中から見つけ出し、かつての姿、そしてその変化のきっかけになった世相の考察をしていくのが、本稿のの目的です。
重すぎる2階席の謎
NHK沖縄放送局で制作した番組内で、おそらく1957年の首里劇場の客席の写真が映し出された。首里高校の文化祭の写真ということで、大勢の父兄が駆けつけたとは言え、劇場経営も絶好調な時代の、堂々たる風景と言えるだろう。
特に驚くべきは、二階席の観客の数で、木造建築の二階席にこれだけの人間が乗ったときの荷重 を考えると恐ろしいものがある。どのような構造で二階席を支えているかを示すために、簡単な構造を下の図1の図面にしてみた。
2階席を両サイドのA、A’、そこに橋のようにかかっているBと、三つの部位に分けて考える。AとA’は地面から天井まで続く、まさに屋台骨とも言える大きな柱が、約12尺間隔で支える頑丈な造りだ。
その間にあるBの部位は両端でAと繋がっているが、その間には中央に1本の金属の支柱があるだけだ。(図1参照)。あとは観客席背面に壁があり、そこには9尺間隔で柱が入っいる。
主にBの部位には座席が集中しているので、満席になればそうとうな荷重が予想される。いかに壁沿いで支えている柱があるとはいえ、客席の下の一本の柱だけでは前のめりに崩壊するか、梁への負荷がほぼ一点に集中するため、非常に不安定な構造と思われる。
またBの床は太く長い梁で造られているので、無観客であっても部材だけの重さもそうとうなものだろう。加えて中央付近には映写室があり、中には2台の35mm映写機とデジタルプロジェクターなど、重量級の備品が常駐しているうえに、その壁はコンクリートブロックで仕切られていて、この壁ごとが木の柱の上に置かれているのだ。
古写真に写った2本の支柱
ここで前述のNHKで放送された首里劇場の観客席が撮影された古写真と、現在の同じ場所で比較してみる。(図2と図3)すると、現存しない支柱が2本映っていることに気がつく。
図2の赤い円で囲った部分に、2本の支柱が見えるが、これは図3には写っていない。2本の支柱の場所は、中央よりやや下手(しもて)よりだ。おそらく左右のバランスから考えると、上手(かみて)側にも、もう2本あることが予想される。そこでこの場所に痕跡がないかの、実地調査を行った。
留意事項:酷似する形状
実地調査の前に、2階席を支える現存する一本の柱が、古写真に写り込んだ柱と酷似していることを留意いただきたい。(図4)
円筒形の柱で、上部にはほぼ正方形の金具があり、刺股(さすまた)のように梁をくわえ込んで支えている。現存する柱は金属製であるが、写真のものは素材までは不明。当該箇所にこの痕跡があれば、この写真がまちがいなく首里劇場であり、金属製の丈夫な支柱が複数本あったことを証明できるだろう。
実地調査へ
まず写真の位置の床を確認すると、円筒形の穴をコンクリートで埋めた跡がしっかり残っていた(図5)。単に柱を引っこ抜いて埋めたというより、金属製のパイプをカットしたように、穴の輪郭が盛り上がっている。柱の根っこはまだ埋まっているようだ。
さらにその真上にある梁に目をやると、太いボルトが通せそうな穴が開いている。柱があったとおぼしき残りの3ヶ所を確認すると、ボルト穴は4ヶ所すべてにあり、床にはおぼろげなものもありながら、何かしら埋めた後が残っている。
また梁のボルト穴の周りには、明らかに四角い金具がハマっていたとおぼしき切り欠きも残っている箇所もある。この切り欠きは幅が20cm強で、金具の幅より少し広いくらいであり、同様の金具がハマるサイズだ。また穴の高さを比較すると(図6)、ほぼ24cmと同じ高さにある。
このことから推測して、おそらく現存する1本の柱と同じ形のものが、2階席を支える柱として、4ヶ所に埋め込まれ、ボルトで梁に固定されていたのだろう。
柱は4本か5本か?
ここで素直に現存する柱を含めた5本の金属柱があったと言えれば簡単なのだが、そう簡単ではない。
柱が撤去された場所の床には柱を切った跡があると記したが、実は現存する柱は設置方法が違っていて、柱は埋め込まれておらず、四角い鉄板に溶接された状態で立っている(図7)。また上部の金具にはボルト穴があるが、 梁には穴が通っておらず、ここにボルトが元々から刺さっていなかったことがわかる。設置方法が違うというか、簡素化されているのだ。
ひょっとしたら元々は4本の金属柱が床に埋め込まれ、梁にボルトで固定されていたが、とある理由によって撤去。一本だけは中央部に移動して、簡易な工事で設置したのではないだろうか。
ではなぜ、支柱を間引き、移動する必要があったのか。
柱を間引いた理由は何か
柱を間引き、移動することの利点は、1階席の視聴環境を良くするための措置だと考えることができる。だがそのためには二階席の安全を犠牲にすることになる。つまり2階席を閉鎖する前提がなければ、この工事は施設管理上のリスクが大きすぎる。
これまでは2階席は、復帰のころに安全基準が変わって、使用不可になったと言われてきた。二代目目館長の金城田真が残したメモ(図9)には「昭和57年(1982年)4月17日 消防署立会で2階席なし、映写室だけ許可 客席は1階だけ」と書かれたものがあり、復帰から10年後に座席数が減ったことがわかる。正式に1階席のみの劇場になったのがこの時期であれば、復帰の制度変更と言う説は怪しいものがある。
ひょっとしたら支柱工事のタイミングが、消防の検査や復帰のタイミングよりも前の時点であったのではないかと推測するほうが自然ではないだろうか。
まずは閉鎖、そして工事
支柱工事のタイミングは、消防署に二階席の使用を禁じられるよりも早かったはずだ。なぜなら、消防署に危険性が指摘された後に支柱を減らすと言うのは理にかなっていないからだ。また普通は改装工事後に検査は入るもので、検査後に構造的な改装を加えるのは施設管理のやり方として無茶な話でもある。
つまりは検査以前に、自主的に二階席を封鎖する必要が首里劇場にはあったはずだ。閉鎖していれば2階席の支柱を減らしてもそれほど問題はない。そこで1階席に集中する観客の視聴環境を良くする目的で支柱の間引きが行われたと考えるのが理にかなう。
これによって2階席の安全性が低下したため、後の消防署の検査で正式に閉鎖が義務づけられた。という流れが想像できる。
劇場経営者の苦悩と工夫
二階席を封鎖した最大の理由は、ルーチンワークの削減だろう。観客動員が減少し、一階だけで席数が足りるなら、二階席をまるごと閉鎖することで、掃除などの日常的なメンテナンスを減らすことができる。席数としては1/3くらいでも、二階への上がり下がりも入れると、気持ち半分くらいは楽になる。
首里劇場も全盛期には大勢のスタッフを雇っていたと言うが、沖縄芝居の衰退と、映画産業斜陽の時代には、当然人員の削減が行われ、純粋な家族経営へと縮小化されていったはずだ。2階席の閉鎖から、支柱の間引きに至る変化は、このような劇場経営の苦労をかいま見ることができるように思える。
まとめ
1)首里劇場で開催された首里高校の文化祭の写真に、現状は無い二階席の支柱が二本写っていた。(NHK沖縄放送局の番組で紹介された写真)
2)現状の首里劇場には支柱を取り外した痕跡が、4ヶ所の梁と地面に残っている。梁に残った切り欠きや、ボルト穴の位置から、現状の1本だけ残っている支柱と同じものと思われる。
3)現存する1本の支柱は、ボルトもなく、土中に埋めた形跡もないことから、4本の柱のうちの1本を切断、移動して、鋼板に溶接して簡易に設置したと思われる。このことから、おそらく二階席の中央部は4本の支柱で支えられていた時代があった。
4)仮説として、集客の低下から、二階席を閉鎖して、掃除などのメンテナンス作業を簡略化。その際に一階の視聴環境を良くするため、支柱間引きと移動が行われた。
5)1981年に消防署の立ち入りにより、正式に二階席の使用が禁止される。
6)しかし、観客が減ったこともあり、少人数の観客が二階席で映画鑑賞をすることはあったという証言はある。これも観客が多くないからできたことだろう。
7)最終的には、二階席の梁や床板の老朽化により、2に階席は完全に閉鎖された。
支柱の本数の変化(4本から1本)についてはまちがいないと思われるが、2階席の閉鎖理由は仮説でしかない。また工事の時期などは、はっきりとした証言は今のところハッキリしておらず、写真など今後の調査が期待される。
-つづく-