首里劇場調査レポート その4【暫定版】

文:普久原朝充

首里劇場のコンクリート造の柱だが、生コン打設によるものではなく、ブロック造なんじゃないか?という考察。

▲首里劇場のコンクリート柱の断面予想図。

舞台袖上手側「は二十五」の位置の仕上げのないコンクリートブロックが露出した柱を見て思い至った。エントランスの廊下に貼られている古い写真を見ていると、ブロックの目地がわかる柱が映っている写真もある。そう考えると、ブロックで囲われている柱の中には、当初の木造柱が残っていたりするのかもしれない。

▲左側のみコンクリート化している状態の首里劇場

現在のように生コンプラントやミキサー車、圧送車などのインフラの無い時代背景を考えると、ブロックを積み上げる方が工期が短くて安価だっただろう。もしくは、人件費の方が影響が大きいだろうか。戦前の大宜味村旧役場などは村民総出で打設作業に関わったという。

沖縄ではミキサー車や圧送車が普及する本土復帰以降もしばらくまでブロック積みが続く。柱梁を鉄筋コンクリート造(RC造)で施工し、外壁を補強コンクリートブロック造(CB造)で施工するような折衷した建物も多かった。沖縄の不動産広告などで見かける「RCB造」という略称表現は、上記のように「RC造」と「CB造」を折衷した旨を示す沖縄においてのみ通用する造語で他所で使われているのを見かけたことがない。(※柱梁が鉄筋コンクリート造の時点で構造区分的には「RC造」になる。)本土からの移住者が見たら戸惑うだろうなと思った。おそらく80年代ぐらいから総打設が普通になっているんじゃないだろうか。

※覚書の追記

1949年、生コンクリートプラントが東京に誕生。1955年までは実績は少なく、初期はダンプトラックで運搬、その後バイブレーショントラックなどを経てミキサー車が登場。1959年頃より海外のいわゆるミキサー車を導入し、生コン打設が普及。
1920~30年代、欧州でコンクリートポンプ開発。1932年アメリカに導入。1951年、石川島播磨重工が機械式ポンプの実用化に成功。1961年油圧式が開発される。ここまでは定置式で主に土木工事などで使われた。1963年頃にアメリカでトレーラー式が開発、1965年に日本でも石川島播磨重工がコンクリートポンプ車を開発。1967年頃から工事現場の導入事例の記事が登場。
1964年の東京オリンピックまでは、リフトと猫車での打設工事。
沖縄では、1962年頃に生コンプラントおよびミキサー車が導入されたらしい。本土復帰の1972年には圧送業の会社が10社程度あったとされる。1949年の巨大台風被害と、1950年の朝鮮戦争のため沖縄の基地恒久化のための建設事業のために受注した本土ゼネコン企業の報告記事(1952年)を見ると、コンクリート打設風景の写真にコンクリートミキサー車が映っていたので、基地内では既に導入されていたかもしれない。

参考文献

日本産業機械工業会『産業機械工業戦後20年史』1968
建設省営繕局『建設省営繕技術報告集. no.13(昭和41年度)』1967
吉田一彦「沖縄工事の実情――特に建築工事に就いて」/日本建築協会『建築と社会 = Architecture and society. 33(7)』1952-07所収
(株)大林組工務部 藤宗範保「建築工事用として最近使用されている コンクリートポンプについて――コンクリート工事における新らしい施工機械」/日本建築協会『建築と社会 = Architecture and society. 48(2)』1967-02所収
沖縄県コンクリート圧送安全協議会ウェブページ