文:平良竜次
首里劇場調査団・副代表
NPO法人シネマラボ突貫小僧・代表
(オキナワグラフ2021年10月号掲載の通史に、加筆修正を行ないました)
【はじめに】
沖縄に現存する中で最古の劇場が首里大中町の住宅街にある。
首里劇場。沖縄戦の惨禍が未だ生々しく残る時代に開館して以来、日本本土からの切り離しと米軍による統治、そして再び日本の施政権下への復帰と、ときの権力者の采配によって沖縄が大きく揺れ動く中にあって、芝居や舞踊、映画上映などの娯楽を通して庶民の心を癒やし続けてきた。
その間、時代の趨勢に合わせて多少の増改築が行われたが、創建当初の雰囲気を保ったまま今もなお首里の地に鎮座する奇跡の劇場である。
創業から70年余りに渡る首里劇場の足跡を追った。
首里劇場前史~露天劇場時代
首里劇場が現在の建物としてオープンしたのは1950年9月21日のこと。だが、劇場そのもののスタートはさらに、それ以前にまでさかのぼる。
沖縄芝居役者の八木政男さん(1930年11月25日生まれ)によると、巡業で初めて訪れた首里劇場は、露天…いわゆる屋根のない劇場だったという。
同様の証言をしているのは、沖縄芝居役者・演出家の掘(高宮城)文子さん(1936年3月19日生まれ)。彼女は踊りの才能を見込まれて小学生で劇団に加入、沖縄各地を巡業した。そして1947年頃。新たな公演先として、首里劇場の前身である露天劇場に足を踏み入れた。場所は現在の敷地より数10メートルほど西側にあったという。周囲は住宅がポツポツと建っているだけの寂しい場所で、近くには復興住宅を建てる際に使う木材が積まれていた。劇場は原っぱを米軍放出品の有刺鉄線で囲み、テント布で目隠ししただけの簡素なもの。もちろん屋根などありはしない。舞台はドラム缶を並べて、その上にベニヤ板を敷いただけの急ごしらえ。文子さんの一座はそこで3カ月間にわたり寝泊まりしながら芝居や踊りを上演したという。
当時の劇場で撮影された貴重な写真がある。それは、戦前より沖縄でバレエ指導を行っていた南條みよしが戦後、教え子たちを集めて発表会を行った際の集合写真。母みよしの後を継いだ南条幸子さんのバレエ教室「南条幸子バレエ研究所」のホームページに掲載されており、撮影時期は1947年とある。緊張した面持ちの子どもたちと、中央に赤ん坊(幸子さんの妹)を抱いたみよしの表情を見ていると、あの激しい地上戦からわずか2年後に発表会が開催されていたという驚きと、当時の人々のたくましさに感慨深いものがこみ上げてくる。
幸子さんに直接話を伺ったところによると、当時のみよしは家族と共に疎開先の熊本から引き揚げて間もない頃。人々が食べるもの住むところにも事欠く状況下において、子どもたちの情操教育がなおざりになっていることに危機感を覚えて舞踊研究所を起ち上げたという。すると地域の子どもたちが集まり、水を得た魚のごとくダンスに夢中になったそうだ。そこで、教育者の夫と共に発表会を企画するのだが、モノ不足の時代で蓄音機が無いために、音楽の先生方がオルガンやラッパ、バイオリン、ギターなどの楽器を手に入れて楽団を編成した。また背景は絵の先生にお願いして描いてもらい、照明は色紙にライトを手回しして当てた。このような周囲の大人たちの手厚いバックアップと、子どもたちの努力が実って発表会は無事成功。その後も首里劇場にて発表会が行われたそうだ。
幸子さんは当時を「子どもながら感動したのを覚えています。あの時代にこんなことができるだなんて。両親の情熱も去ることながら、首里という地域の文化レベルの高さもあったのでしょう」と振り返る。そんな人々の文化への熱い思いを実現させる場として露天劇場時代から活用されていたのが首里劇場だったのだ。
まぼろしの「首里公民館」
当時を知る人々の証言と貴重な写真を通しておぼろげながら見えてきた露天時代の首里劇場だが、果たして、いつ頃に作られたのだろうか。そのヒントとなる資料が、1947年8月2日、沖縄民政府(琉球政府の前身)において開催された「劇場設置委員会」の会議録だ。そこでは民政府主導で各地に劇場を作ろう、まず民政府が資材を提供、公民館として建設、経営は民間主導で…と詳細が話し合われているのだが、その中で「出来タ所ハ首里(工務)」と、すでに沖縄民政府工務部によって首里に劇場が建てられていることを示唆する記述があるのだ。1947年というと、前述に登場した掘文子さんの公演と、南条みよしの生徒によるバレエ発表会が行われた年と一致する。さらに、同年12月4日に琉球創作舞踊の第一人者として名高い故・阿波連本啓が率いる「首里文化連盟」が第一回公演を行うのだが、その場所は「首里公民館」となっている。これは首里劇場の前身となる露天劇場を指しているのだろうか?
首里公民館が首里劇場ではないか…との仮説を補強するのが、ある人物の存在である。
1950年に発刊された雑誌「演劇と映画」5月号(首里劇場開館より4カ月前)では、劇場一覧表に首里公民館なる公営の劇場があったと記されており、真栄城喜福という人物が経営者となっている(公民館の住所が当蔵町となっているが、この頃の新聞や雑誌はミスが多いので注意が必要)。
さらに首里公民館と経営者・真栄城喜福の名は、1950年7月15日付のうるま新報2面に掲載された「祝首里市の復興」という広告にも登場する。場所は首里市大中區(区)。現在の首里劇場がある町だ(↓写真参照)。
そして、ついに首里公民館が首里劇場であることを裏付けるミッシング・リンクが、1950年9月13日付の沖縄タイムス紙面に掲載されているのを発見した。「劇場新築御挨拶」なる広告が掲載されており、首里劇場の経営者として真栄城喜福(福)の名が登場するのだ(↓写真参照)。
なぞの創業者は首里の名士
真栄城喜福とはいかなる人物なのか。
真栄城は1897年に首里市大中町に生まれた。神戸で苦学し本土の肥料会社に就職。戦後は沖縄民政府工務部の首里出張所総務部長を経て、琉球肥料㈱と久米島製糖㈱の取締役に就任した(1964年死去) 。
彼は地域の発展に尽くした、いわゆる“町の名士”で、戦火で家を失った首里の人々のために復興住宅を数多く建設。城西小学校の第2代PTA会長に就任。また1954年の那覇市と首里市、小禄村の合併においては、首里市側の交渉検討委員として名を連ねている。
そして、真栄城にはもう一つの顔があった。琉球王家直系の子孫で戦前から戦後の沖縄において経済・行政・政治のリーダーとして活躍した護得久朝章の右腕である。護得久は戦後の沖縄本島で初めての行政組織「沖縄諮詢会」(後の沖縄民政府→琉球政府)幹部委員の一人であったことを考えると、沖縄民政府が首里に劇場を作る際に、信頼できる地元の人間として真栄城を劇場の経営者として推挙したのではないだろうか。