首里劇場通史〜沖縄最古の劇場70余年の物語(4)


文:平良竜次
首里劇場調査団・副代表
NPO法人シネマラボ突貫小僧・代表


テレビの台頭と長い斜陽

当初、首里劇場では沖縄芝居巡業と映画上映の2本柱で興行を組んでいたが、時代の趨勢で芝居上演はだんだんと減り、それと反比例して映画上映の割合が大きくなっていた。ただ、芝居興行が完全になくなったわけではなく、ごくたまに行われていた。なお最後の上演は1980年代初頭の「でいご座」母の日公演である。

芝居から主役の座を奪い、娯楽産業のトップとして長らく君臨していた映画興行だったが、新たなメディアの登場によりその座が揺らぎ始める。1959年11月1日に「沖縄テレビ」が開局。翌年にはラジオ局「琉球放送」がテレビ放送を開始したことで、次第に客足が鈍っていった。1965年3月、テレビの猛攻に耐えきれず「沖映」が映画興行からの撤退を発表。残った「琉映」「国映」「オリオン」も沖縄各地にあった系列館が次々と閉館した。

起死回生の成人映画上映

集客の伸び悩みは首里劇場でも同様だった。やがて、映画が斜陽となった1970年代。館長の田真はプログラムを一般映画から成人映画、いわゆるポルノへとシフトすることで生き残りを図った。

この辺りの経緯は、ちょうどこの頃より父・田真の仕事を手伝うようになった政則さん(現在の首里劇場館長)が詳しい。当初は国映・オリオン系が配給する洋画ポルノを掛けていたが、客足は思ったより伸びなかったという。田真としては当時、話題を呼んでいた「にっかつロマンポルノ」(1971〜1988年)の作品を上映したかったのだが、これは琉映が独占配給している。首里地域では琉映系の「首里有楽座」(首里鳥堀町)が取り扱っていたために触ることができなかったそうだ。だが急転直下、「首里有楽座」があえなく閉館したために、結果として代わりに首里劇場で上映できるようになったという。

余談だが、成人映画の話を進める前に、一緒くたにされがちな「にっかつロマンポルノ」と「ピンク映画」の違いについて簡単に説明したい。「にっかつロマンポルノ」はメジャー製作会社の日活が作る成人映画で予算は潤沢、スタッフも一流で有名役者が出演するなど豪華であることが強みだった。一方、ピンク映画は小規模の映画会社が作る極めて低予算の成人映画で出演している役者もほぼ無名。その代わり、作り手の個性を全面に出すことが可能であり、ここで育ち巣立っていった映画人も多い。「にっかつロマンポルノ」は1988年に製作を休止したが、ピンク映画はごく少数ながら今も作られ続けている。

救世主「にっかつロマンポルノ」と新たなライバル

話は戻って70年代の首里劇場である。「にっかつロマンポルノ」を上映したところ観客が殺到し、2階席まで埋め尽くすほどの勢い。これ以降、首里劇場は成人映画を中心にした興行スケジュールを組むようになった。

1988年2月18日付の琉球新報に掲載された「県内映画館巡り(4)」にて、田真館長が成人映画の上映についてこのように語っている。

「(首里劇場は)普通の映画では立地条件が悪いが、成人映画だと逆に引っ込んだところにあるから客が入りやすい」

そうは言っても、作品によって当たり外れが大きかったという。政則さんによると「SMとかあまりドギツいのは最初しか入らない。逆に、ちょっとソフト路線の一般映画で有名な女優さんが出演するような作品が人気だったりする。結局のところエロだけではなく、映画そのものの面白さが客入りを左右するんだな」

ちなみにこの頃の首里劇場では、ときおり一般映画も上映した。成人映画の合間にアニメや特撮などの子ども向け短編数本をパッケージした「東映まんがまつり」も上映していたそうだ。

▲1985年10月1日、左から金城政則さん、田真さん(提供:金城政則)

成人映画の上映で息を吹き返した首里劇場だったが、80年代に入ると新たなライバルが現れる。レンタルビデオ店である。1987年には全国で15000店を記録。沖縄でも次々とレンタルビデオ店がオープンした余波で、各地の映画館が次々と閉館に追い込まれた。

もちろん成人映画も例に漏れず、自宅で密かに楽しめるアダルトビデオの勢いに押されていった。隆盛を誇っていた「にっかつロマンポルノ」も1988年に製作を終了。これ以降、首里劇場はピンク映画をメインにした上映を行うようになる。

| | | | |