首里劇場通史〜沖縄最古の劇場70余年の物語(3)


文:平良竜次
首里劇場調査団・副代表
NPO法人シネマラボ突貫小僧・代表


我が道を行く首里劇場

首里劇場が開館した1950年といえば、沖縄の映画興行業界においても新たな一歩が踏み出された年となっている。

米軍政府は、氾濫する闇フィルム(沖縄外から密輸された無許可の映画フィルム)の一掃を狙って、本土からのフィルムの正規輸入を検討。それを受けて、宮城嗣吉が同年6月14日に「沖縄映画興行株式会社」(後の沖映)を設立。本土の大手映画会社と交渉を開始。松竹、大映、東宝、新東宝、東横(後の東映)と上映に関する正式契約を結んだ。これにより、民間によるフィルム輸入が開始されることになる。彼に続いて、大城組の大城鎌吉が12月28日に「琉球映画貿易株式会社」(琉映貿)を設立。翌年2月13日には「オリオン興行株式会社」(オリオン)が設立される。これに1954年に國場組内に新設された「國場組映画部」(後の国映)を加えた4大配給チェーンが覇権を争い、系列映画館を増やしていった。その勢いは留まることを知らず、1960年には120館に達した。

▲様々な系列を記した首里劇場の壁面。

このように、沖縄各地の劇場が次々と4大配給チェーンの傘下に入っていく中にあって、首里劇場は独立独歩を貫いた。1960年前後に撮影された外観写真がまさにそれを物語っており、新たに増築された前面の鉄筋コンクリート部分に「オリオン系」「沖映系」「琉映系」「国映系」と、4大配給チェーンの名称とロゴが直描きされているのだ。これは、全ての配給会社の作品を上映しているという意味であり、系列映画館ではできない芸当だ。

田真館長時代〜アイデアと工夫で劇場経営

首里劇場の経営者となった田光だが、彼は彼で本業の「田光組」が忙しく、弟の金城田真(でんしん)に運営の一切を任せていた。田真はやがて共同経営者となり、1962年頃、田真が二代目館長に就任する。

館長となった田真のことを覚えている人物がいる。首里劇場を起ち上げたと思われる真栄城喜福の息子である秀光さんだ。母が首里劇場の隣で食堂を経営していたこともあり、小学生の頃は劇場へとよく映画を見に行ったという。

「僕はまだ子どもだったからかもしれないけど、田真さんはとても体の大きな人だったという記憶があります。そしてスポーツマンで足が速かった。劇場前でよく運動していましたね。友だちとヌギバイ(無銭入場)をしたりしたのですが、田真さんにバレて顔にペンキでバッテンを書かれたこともあります(笑)。懐かしい思い出です」

▲左端のネクタイを締めた男性が金城田真。右端が田光。田光組と首里劇場の兼用事務所にて
(提供:金城政則)

息子の政則さんによると、「親父は金を出す前にまず頭を使うアイデアマンでコツコツ型の経営者だった。親父のおかげで劇場が長く持った」のだという。

たとえば、国際通りにある映画館「グランドオリオン」が、タバコのヤニで茶色くなったスクリーンを貼り替えると聞けば、それを譲り受けて、専門業者に銀皮膜を塗布させて再利用。ついでに舞台幕ももらってきた。

「いま使っている客席の椅子の一部も、親父が国映館と安里琉映館から譲ってもらったもの。ついでに言えば、入口にある観葉植物も開南琉映が潰れるというからもらってきた」

実は筆者は90年代後半に田真さんにお会いしたことがある。好々爺然とした方で、とても穏やかな口調が印象的だった。舞台の上の鳳凰も自ら漆喰をこねて描いたと笑顔で語ってくれた。下が削れているのは、完成の後、上映の妨げになることに気づいたから。このおおらかさが微笑ましい。ほかにも彼の手によるものが劇場のあちこちに今もなお、残っている。

▲舞台上に掲げられた漆喰で作られた鳳凰のレリーフ。

 

| | | | |