首里劇場通史〜沖縄最古の劇場70余年の物語(2)


文:平良竜次
首里劇場調査団・副代表
NPO法人シネマラボ突貫小僧・代表


威風堂々たる有蓋化

露天劇場だった首里公民館だが、建物有蓋化の工事が1950年6月1日より始まった。建設に際しては郷土史蹟保存会、沖縄美術協会の有志は博物館長からの指導があったという。建設を担当したのは首里大中町の土木建設業「合資会社田光組」(同年1月1日設立)。社長の金城田光(でんこう)もまた真栄城と同じく沖縄民政府の工務部出身で、首里の復興に大いに貢献した人物である。名大工が多いことで有名な大宜味村出身という強みを活かし、同郷者を束ねて、山川町の首里プールや当蔵町に新築移転した首里博物館などの大型案件を次々と受注した。首里劇場の建設では、規格住宅 「ツーバイフォー」の余った資材を流用したそうだが、工務部時代に培った行政および各業界との太いパイプがあったからこそ可能だったのだろう。また田光は工務部金武湾出張所の所長時代に「金武湾劇場」の施行に携わっていたことから、劇場建設のノウハウを持っていたと思われる。

▲1950年10月頃、開館間もない首里劇場

そして、建設開始からわずか3カ月後。1950年9月21日に首里における戦後初の有蓋劇場が華々しく開館した。名称も首里公民館から首里劇場へと新たな館名が授けられた。戦災で失われたかつての首里城を思わせる唐破風の意匠を凝らした木造建ての赤瓦葺きで、正面には「娯楽の殿堂」と大書きされた看板が堂々と掲げられた。場内は観客が1,000人は入る程の広さを誇り、二階席も設けられた。舞台に目を移すと、左右に立派な花道が設置されており、巡業で訪れた劇団はこの花道を演出にどう活かすか創意工夫したという。また舞台の裏側は劇団の楽屋兼宿泊場所となっており、旅から旅の巡業公演を行う役者たちが自炊するためのカマドも設置された。首里劇場は見る側と演じる側の双方にとって、誠に使い勝手の良い劇場だった。

さて、同日の「うるま新報」に掲載された広告には、「豪華けん爛の大舞台を飾る新進気鋭の大伸座御目見得公演」と題して、「祝賀舞踊・壽祝の門出」、大宜見小太郎主演の「時代劇・夏祭 雨の夜」などの演題が記載されている。本稿の冒頭に登場した沖縄芝居役者の八木政男さんはこの公演に出演。彼によると、その際披露された「現代劇・生きる道」は、当時の糸満警察署長・太田朝信が脚本を手掛けた防犯劇だったと語っている。

▲うるま新報  1950年9月21日 大伸座の公演広告。

芝居のほかに映画も上映された。開館当時の写真には「落成」の文字と共に、『男の涙』(1949年/斎藤寅次郎監督)の看板が掲げられているのが見える。また、同年11月29日の沖縄タイムスに掲載された広告には詩人ジャン・コクトーが監督したフランス映画『美女と野獣』(1946年)が上映されると書かれている。本作を提供した「三光映画社」とは、当時、映写機やフィルムなど上映機材一式を担いで各地の劇場を回った「巡回映画社」の一つである。

▲沖縄タイムス 1950年11月29日 ジャン・コクトー監督作『美女と野獣』の広告。

 

金城田光に経営権を移譲

露天劇場から有蓋劇場へと大きな変貌を遂げた首里劇場では映画や沖縄芝居が披露され、連日、押すな押すなの大盛況を博した。そんな中、さらなる変化があった。それは経営者の交代。真栄城喜福が「田光組」の金城田光に経営権を譲ったのだ。本業が多忙を極める真栄城が田光に買い取りを打診したとも、逆に田光が隆盛を極める劇場興行に参入しようと真栄城に頼み込んだとも言われているが、事の真相は不明である。

ともかく首里劇場は真栄城より田光に引き継がれた。

首里劇場では映画や芝居などの一般興行以外に、学校の文化祭や各種芸能コンクールの会場としても使用された。たとえば1952年2月、首里城跡に建てられた琉球大学の開学記念式典に際して「歓迎會」が執り行われたとの記録と、その際に撮影された写真が残っている。ほかに「首里奨学母の会」という経済的助けを必要とする小中高生を援助するために結成された団体は、基金づくりのために首里劇場を借りて素人芝居を行った。練習ではブーテンこと小那覇全孝、仲井眞元楷(仲井眞弘多元沖縄県知事の父親)、阿波連本啓といった大御所を招いて指導してもらう徹底ぶり。そのおかげか、1960年3月の本番では昼夜二回興行で200ドルという予想以上の収益を得ることが出来たという。

首里劇場は「娯楽の殿堂」という側面のほかに、地域のコミュニティ施設として、人々に愛され親しまれた。

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